
死
「死」というものを皆さんはどのように捉えているのでしょうか? 私にとって『死』とは自然の営みの中における通過ポイントであり、『死』とは当たり前の日常なのです。『死』を切り離した『生』などありません。 鎌倉時代から江戸時代にかけて描かれた『九相詩絵巻(九相図)』をご存知でしょうか?(『九相詩絵巻(九相図)』で検索すると画像を見ることができます) 人が死んだ後、屋外に打ち捨てられ、徐々に白骨化していく様子を描いたものです。 九相図は仏教絵画で、肉体に対する執着を捨て、世の無常を悟るために死後の九つの段階を観想する『九相観』が基となっています。 私はこの絵巻がとても好きです。 それは自然の摂理が丁寧に解りやすく描かれているからです。 どんなに人が「怖い・醜い・グロテスク」だと死後の変化に目を背けても、その変化は全ての人が辿る当たり前の過程なのです。 もちろん現代は亡くなった後、エンバーミングを施したり、早い段階で火葬を行いますので、白骨化していく過程を目にすることはなかなかありませんが・・・ この絵巻を見るたびに、「人間は自然の一部分であり、自然の摂理

今の健康状態は、誰がもたらしたものでしょうか?
『二宮金次郎伝』(三戸岡道夫:著)の中にタイトルの答えとなるお話がありましたのでご紹介したいと思います 二宮金次郎のもとへ正月の餅米を借りに来た源吉。大酒呑みで、怠け者であった源吉に金次郎はこう諭した・・・ 「お前のような怠け者で、大酒呑みが、正月だからといって人様と同じように餅を食おうというのは、心得違いである。正月は急に来るわけではない。また米は偶然に得られるものでもない。正月は365日たって来るわけであり、米は春耕し、夏草を取り、秋に刈って、はじめて米になるのである。お前のように春に耕さず秋に刈らない者に、米がないのは当然である。・・・・・・・正月に餅が食いたければ、今日から酒をやめ、春には田を耕して米を作り、来々年の正月に餅を食うべきである。だから今度の正月は餅を食うのはあきらめなさい。」 『二宮翁夜話』から この金次郎の言葉を読んで、「その通りだよね」と思う方は多いのではないでしょうか。源吉は、正月まで十分な時間があったにも関わらず、餅を食べるために必要なことを何もしてきませんでした。その代わり、自分の欲を満たす行動を取り続けてきました