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天 我が材を生ずる 必ず用あり(致知2018年3月)


雑誌『致知』を読み、雑誌のテーマに沿った感想文を書き、月に一度の勉強会に参加しています。(勉強会に関してはこちらを参照)その感想文を随時ブログにアップします。

私の感想文は私の自然観や人生観が如実に現れたものとなっています。それは、私が上部頚椎カイロを行う基礎となっている部分でもあります。

こころカイロのドクターがどんな人間なのか、感想文を通して知っていただければ幸いです。

天 我が材を生ずる 必ず用あり

今回の特集で学んだことは、文中から抜き取った言葉を使用する難しさとその際に起こりうる課題であった。

まず今回の総リードの内容は、『致知』が、会社・組織・社会をベースとした人間学に焦点を当てている雑誌であることを強く私に印象づけるものだった。『社内木鶏』に力を注いでいることからも、いかに人間学をビジネスの中で生かしていくかを中心に据えた雑誌なのだろう。

その視点で見ると、筆者の「せっかく人間としてこの世に生まれてきたのである。自らの使命に気づき、それを果たさないでは生まれてきた甲斐がない」という『天 我が材を生ずる 必ず用あり』の解釈は理解できる。そして「天が与えた自らの用を知る」ことは大切なことであり、自らの用を知るためには、1.志・夢・理想を持つこと、2.仕事に精一杯打ち込むこと、3.続けること、これらが大切だと非常に納得がいく。

さらには、雑誌のメイン読者層が社会の中で仕事をしているかたたちだからこそ、「人は仕事を通してしか自分を磨くことはできない」と強く指摘しているのだろう。

がしかし、今回の総リードにおける李白の言葉、『天 我が材を生ずる 必ず用あり』の解釈には釈然としないものがあり、ビジネスと無理やり結びつけた感がある。なぜなら、詩の中に含まれる語はその詩全体の中で意味を成すものであり、その語のみ切り離して語るべきものではないと思うからだ。

それでは、『天 我が材を生ずる 必ず用あり』はどのような内容の詩の中の一部として出ているのか?気になって現代語訳を調べてみた。李白の詩『将進酒』の中にこの一文はある。

漢詩をウェブで紹介している光永隆氏の現代語訳はこちらだ。

君よ見たまえ、黄河の水が天上から注ぐのを。

激しい流れが海に流れ込むと、二度と戻ってこないのだ。

君よ見たまえ、ご立派なお屋敷に住んではいるが、 鏡に我が身を映して白髪を悲しんでいる老人の姿を

朝は黒い絹糸のようであった髪も暮れには雪のように真っ白になるのだ。

人生、楽しめるうちに楽しみを尽くすべきである。 金の酒樽をみすみす月光にさらしてはならない。

天が私にこの才能を授けたのだ。必ず用いられる日が来る。 金なんぞは使い果たしてもすぐにまた入ってくる。

羊を煮て牛を料理して、まず楽しみ尽くそう。 どうせなら一飲みで三百杯というくらい、トコトン楽しむべきだ。

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井手敏博氏による訳では

君も知る、黄河の水は天上より来り、激流東に奔って海に到る。海に到ればもう戻ることはない。

あるいは、高楼に住まう貴人でさえ、鏡に映る己が老いを悲しんでいる。人生の朝、つややきにかがやいた黒髪が、夕べには寒々しい雪の白きに変じてしまうのだ。

人として生まれ、この世を我が世とは思えるのとき。このとき、歓楽を尽くさなくてどうなる。

美しい酒甕があるという、それを月の下で眺めるだけでいいと思うか。

天が私という人材をつくり、世に送り出したのである。われもまた世に必要なればこそである。

千金を散財したとしても、金はまたやって来る。だが、ともに楽しんだ人は戻って来ない。羊を煮て、牛をさばいて食らう、ともかく楽しもうではないか。

さぁ、一たび飲み始めれば、ぜひとも三百杯を飲み尽くすべしである!

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いくら飲んでも湧きあがる人生の憂愁(ゆうしゅう)ではありますが、さらに飲み尽くして、ともに流し去ろうではありませんか。――あなた方となら、私はできそうな気がするのですよ。

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詩全体の現代語訳を読むと、総リードに書かれているような、「せっかく人間としてこの世に生まれてきたのである。自らの使命に気づき、それを果たさないでは生まれてきた甲斐がない」といった使命感を感じる解釈には到底なりそうもない。才能があるのに認めてもらえないという憂愁(悩みや悲しみ)を老いや川の流れのように流したい。という李白の気持ちがある一方で、美味しい酒は眺めるためでなく飲むためにあるように、李白自身も必要だからこの世に生み出されたのだからそのうち世に必要とされるはずだ。と泰然自若に構えている。私にはそのように感じられる。

今月号の30ページ、『李白の歩いた道』で、宇野直人氏も『将進酒』を紹介している。その中で彼は、『天 我が材を生ずる 必ず用あり』を「自分には才能があるのになかなか認められないという、悶々とした思いが込められているのでしょう。」「いまはたとえ認められなくても、必ず重く用いられる時は来る、という想いが詠われている」と解釈している。ただ、最後にそれらに加えて「天が自分という存在をこの世に生んだからには、必ず使命があるはずだという思いもあったのではないでしょうか」との自らの感想を述べられている。

今回は、語られた言葉の一部のみを使用して学ぶことの難しさを感じると共に、致知で紹介される論語や言葉は全体の中の一部であり、全体を知ることが、先人が残した言葉の意図を理解する手助けになるということを改めて学ばせてもらった。

                           〈了〉

先人が残した言葉に対する解釈に、正しい答えなどありません。

どのような分野でもそうですが、後世の人たちが、先哲の想いや考えを完全に理解することは不可能です。ただ、『無知の知』と同様、完全に理解することが不可能だと知っているからこそ常にその言葉の意味を理解しようと思考し、学び続けるのではないでしょうか。そして、思考し続ける中で自らの答えを導き出す。それが『先哲の言葉を理解する』ということではないかと私は思っています。

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